2009年1月19日月曜日

ゆとり


「ゆとり」という言葉は素晴らしい言葉だ。近年は諸事情あるようで、あまりいい意味に聞くことが無い。
最近の自分を振り返ると無意味な柵に縛られる事や、走ってばかりで自分を振り返る余裕、ゆとりすら無かったように思う。
ゆとりは「時間」を「こころ」を「豊(ゆた)けきもの」とする意味で使われるべきものだ。
だが、その豊かさはどこに行ってしまっていたのだろうか。 自己にもそれは無く、またせかせか動く町で周りを見渡してもなかなか見出す事が出来ない。
人間の活動は豊かになったはずなのに、日々もにもなかなかゆとりを見出せず、ゆとりという言葉自体も曲がって使われている惨状だ。

 自分は「考えながら走る」という目標を掲げて進んでいるつもりだ。しかし、あまりせかせかしていても色々なものが見えなくなるのも事実だ。
 「考えながら歩く」、または「何もしない」時間もたまには必要なのかなと考えた。
 最近、一日の最後に瞑想して自分と対話する時間も設けた。それから少し余裕が出来ている。
精神、身体を常に健全に保っている事はもちろん難しいだろうが、出来るだけ自然なままで居られるよう心がけたいと思う。
 それが本来の「ゆとり」を作り出せるのではないかなと勝手に思っている。

 睦月の初め、神宮(皇大神宮(内宮),豊受大神宮(外宮))参拝してきた。
荘厳な雰囲気に包まれた時の流れ、エネルギーの流れを感じる事が出来る憧れの場所だ。
 新しい事を始めるとき、どうしようも無く行き詰った時、海に行ったり、山に行ったりもするが、神宮という「気」にあふれた地でゆったりとすると自分を更に一回り大きくするきっかけになる気がする。
こんな気持ちになれる日本人でよかったなと感じる。


 神宮の木はとても静かに、自然に大きく根を張り立っている。
 自分も大きな木が育つように何年もかけ太く、高く成長していけるのであれば幸せだ。
 苔がむした大木のねもとを見ていると、この木はどれだけものを観て、どれだけのかかわり合いを持ち、成長してきたのだろうかと考えてしまう。